刺客

順調とは、予定通りに物事が進むことを言うのだろう。何もしなければ、当然何も起こらないが、これもまた順調と言うのだろうか。となると、私は今までずっと順調だったことになる。望めば手に入り、望まねば何も手にしない。放浪を、私は長い間そんな風に捉えてきた。
ラクダの背で揺られながら、私は予想以上によく自分という存在が機能することは分かったのだし、冷えきった鉄を打ちつけるようなことにはならずに済んでいることははっきりとした。そして出来上がりつつあるこのナイフを見ていると、これは切れ味が悪いのではけしてない。単に形状が歪なのだ。すれ違う人々は、口々にこういうものを見たことがないという。だから、これに名前を付けることは許されても、誰かの知っている何かであることもまた、けしてないのだろう。私はなぜ、これをナイフと呼ぼうとするのだろうか。


しかし、むしろ私の錯乱は別の場所にある。
それは時計の秒針が刻む幅のなかにある。そこを秒針が差すことはない。リズムを刻むことをやめ、ただなぞるように進む針なら可能かもしれないが、そうした動きは鼓動と一緒に踊ったりはできないのだ。
ならば、一秒間に2つ進むことは許されないだろうか。瞬時にあわせて戻ることで、時間を誤魔化すことができないだろうか。刺客は錯覚のなかに潜むのだ。静かに息を潜め、闇の向こうを見据えている。しかし、前に進むことは、立ち止まり、ふたたび戻ることと同じなのだ。私は変化を望み、そして何も変わらない世界へと再び戻る。
これは焦りにはつながらないとしても、時計の針と違えることを望む私の呼吸は、どこかずれて、おかしなリズムを刻んでいるようにも感じる。

しかし、これらは全て視点の問題に過ぎない。自分にかける暗示であり、その視界は白い煙のなかでぼやけている。東洋の絵画のなかの、輪郭をなぞる曲線だ。これらはすべて一種の強調であり、視覚の問題に過ぎない。刺客が潜んでいるとしても、それと私が刺し違えることはない。そういう時期はとうに過ぎ去った。
彼に比べて、私はなんと長く生き過ぎたのだろう。砂漠は、もはや遠くへと消えうせた。放浪も浪漫も、ここではもう言葉のなかで息絶えている。月は、都会の私の部屋を静かに照らしているだけだ。

それにしても、なんという執着だろう。自分の影をなくすことさえ、俺はしていないというのに。いや、もう何も言うな。そんなものは最初からありはしなかった。
ただ進めばいい。キャラバンはもう目的地を見据えている。


今は私に付き添う透徹した意識が欲しい。彼はどんな瞬間も悲観的であったりはしなかった。印象と真実を混同する人には、けして分からないんだ。彼は、透き通った意識で何もかもを描写し、ただそれだけで美しかった。その彼が、いま私の煙草に火をつける。