荒地

自由は、その実、なんて不自由なものかと思う。


そろそろ再考されるべきなのは、ロックやルソーの社会契約論が、王権神授説という構成を取らざるを得なかったことにある。この構成は、あくまで当時の現実社会に沿ったものであって、ここから自由の理想的な形態、つまり「自由は前国家的なもので、絶対不可侵な生まれながらにして人間に与えられたものである」という理想を基礎にするには、現実社会に代わる新たな社会が必要とされたのは自然の流れです。つまり、モンテスキューが言うような三権分立
しかし、これもどのように実現されたかといえば、まず前提として法律によって社会を規制することが大前提になる。この辺りを批判して理想を唱えるには、これに代わる秩序維持のための道具を発明しなければなりませんが、その試みに成功した例を知りません。結局、無秩序の肯定になり、単なるカオスです。これを本当に望む人はいないでしょう。


というわけで、法治社会は絶対前提とされたのですが、となるとこの法律を誰が作るのかが焦点になる。
権力が分散されていない社会では、統治のなかに立法も司法もすべて含まれていました。すると、当然のことながら、権力の暴走、濫用を防止し、担保するものが何もありません。歴史的な強者が持っている権力は、社会秩序の調整の役割は果たせても、自分自身が腐敗した時にこれを矯正する術を持たない。敵に対しては強いけど、味方にもあんまり優しくない。この辺りは、歴史を見ればすぐに分かることで、結局は、反対勢力を統合した新たな強者による支配へと代わるだけです。たとえば孟子は、これを易姓革命と呼んだ。まあ、一種の正当化ですよね。天は一つである、という中国人の世界観からは、こう考えないとどうしょもなかったわけで。でも、これって20世紀における戦乱で起きたこととも変わりません。
しかし、近代における政治学や法学など社会一般に関する研究の発展で、権力自体を変化させる方法が発見されたわけで、これがまずは立法権統治権力から取り上げて、統治権力を法の枠内に拘束するわけです。
特に権利意識が強かったイギリスで、統治権力から独立した「議会」が制定され、これによってある程度の濫用を防止することができるようになった。


しかし、ここで次の問題が発生します。じゃあ、立法権を握る議会に「誰を送り込むべきなの?」。
最初は単純で、地主であり地域の代表であった貴族でした。選挙なんてあるわけないです。
しかし、自我意識の発達は、個人を生み出し、社会は無数の個人の集合体になると、利害関係は地域や旧体制と離れてバラバラになる。特に、新興勢力であった経済的な資本家=市民にとっては、封建的な農業社会と結びついた貴族など邪魔でしょうがない。というわけで、市民革命が起こり、選挙制度が生まれていくわけです。男性だけ、金持ちだけ、と制限されたものから、現在のような普通選挙になるのも、選挙制度の枠内での問題ではなく、こうした大きな流れのなかの一部でしょう。


なお、権力の分散、すなわち三権の分立が一定の完成にいたるには、さらに議会の権力をも抑える司法権の独立や、立法を拘束する国民制定による正義の法=実質的な意味での憲法によって補完される必要があった。こうしてとりあえず出来上がっているのが、現在の社会と言えるでしょう。
これを管理社会と呼ぶか、それとも最低限享受すべき自由を保障するための必要な装置と見るかは、立場によって異なるとしても、こうした理解を踏まえなければ、「自由」という名による差別や混乱を生みかねないことは間違いないことのように思えます。抑制、均衡といった、相互の監視が無ければ、力を持つ人間は、けして低くない確率で暴走するでしょう。北西にある将軍様の国や、アメリカに叩き潰された国々を見れば、これが過去の遺物でなかったことが明白です。


ちなみにポイントは、各自の理想も欲望もバラバラということに尽きます。これを保障することで、個人として生きる道が初めて生まれ、現在ではまるで当然のもののようになってますが、実際は、こうした多様なものを保障することが、どれだけ複雑なシステムによらざるを得ないかには深く考察すべきだと思う。
表現の自由というものが、たとえば無制限なビラ貼りや立て看板の乱立、テレビを見るだけで広告によって欲望さえもコントロールされる現実などを考えれば、単純に絶対無制約なわけがないことがすぐに分かります。


自由は、昔の人が思っていたほど、完璧なものではなく、けして自由なものでもないです。
革命によってどれだけ理想的な次の時代が生まれるとしても、無秩序を抑えるためのやむを得ない権力の存在を考えれば、必ずそこでは血が流れる。それをどれだけ正等化しようとしても、結局、アメリカのような国家とそれほど違ってはこないことでしょうね。


だから、単純に夢を見ることはできません。
別に必要以上に悲観的になっているつもりもないです。私は笑える以上、悲観的なのではない。自由という概念さえ知らなかった過去の人々が、生活のなかで笑っているのと変わらない。それを、客観視するから、悲観的ということになってしまうだけです。

つまりは、エリオットの見た「荒地」が、単に戦争によって荒廃した空虚な都市の描写ではないのと同じように、常にこの世界は荒地でしかありえないし、しかし、そこに拡がる人々の生活は、単純に「荒地」のなかの悲惨なものなのではない。
理想や夢を持とうとするのならば、ただ共有する世界像であるということ、これだけです。


私自身は、こうした自分の見解や視点を保守的なものだとは思うし、スターリンの標的になった社会民主主義と、立たされている状況(当然、主義は違いますが)は変わらないかもしれません。でも、流血は嫌だし、泣声も聞きたくない。どっちが正しいかなど絶対的に言えないでしょうが、当たり前になっている素晴らしいものを、ちゃんと評価するのも大切なんだよねと思うのです。太陽(日の丸とかアマテラスの比喩じゃあないです)が燦燦とくれるものを、お百姓さん以外があまり感じないみたいに。