完全に専門の話。
周囲を見ていると、論文試験のための対策がどうにもマニュアル化してる気がする。「解法」という意味では有効だと思うし、テクニックとして身に付ける必要はあると思いますが、それって大学受験における数学のようで、例題の解法をそのまま別の問題に当てはめるだけです。要するに、たくさんの問題を解くことで、似た問題に同じ方法を当てはめるだけ。ひたすら法律上の論点を当てはめるだけで、でも、それでいいのかと思う。

例えば、憲法では、事例の合憲性を判断する問題ばかりなのですが、実際に最高裁憲法問題を判断するために、判定基準(合憲性判定テスト)というものを使います。
人権の制約が、憲法12条、13条、22条、29条にある「公共の福祉」という文言によって許容されるというのは争いのないことで、ただ、これだけではあまりに抽象的で漠然としているので、二重の基準という方法で、具体化します。要するに、権利を精神的自由権経済的自由権に二分し、前者には「厳格な基準」を、後者には比較的緩やかな「合理性の基準」を使って判断するというものです。さらに、中間的なものには「厳格な合理性の基準」などの、中間審査基準を使う。それぞれに、何種類かの基準があって、それを事例に当てはめていくわけです。
ただ、例えば厳格な基準のなかでも最高レベルに厳しいものとして「明白かつ現在の危険の基準」というものがあって、これは表現の内容を直接に規制するものへの判断基準として使うのが受験生では一般的ですが、実際には漠然としているという理由(判断に裁判官の裁量が入る余地が大きすぎる)で批判も多く、アメリカではそれを発展させたブランデンバーグ・テストを使う傾向にあります。私は、これを使うべきだと思う。
実際に、表現内容への規制を巡っては、政治的表現の自由(要は、政府を自由に批判する言論の自由)と煽動罪との関係で問題になることが多く、その際の判例では、どうも問題のある判決が出ていることなどを考えれば、「明白かつ現在の危険」がどこまで厳格な基準なのか大いに怪しいのです。

しかし、そんなことまで勉強しなくても合格はできるのが現状なので、どこまでの理解が求められているのかはたかが知れています。けれど、この資格を得ることで与えられる責任を考えれば、そんな機械的な方法だけでいいのかなあとは思います。