古代の午後の幸福

何か足りないなぁと最近は感じることが多い。
信仰と理性を巡る哲学史上の問題なんかを考えると、そういうものなのかとも思う。私を包む世界には、私が感じる世界には、見えない足場を支えているような、何かが足りないように感じることもある。
普遍論争は単なるキリスト教を巡る論争などではないわけで、唯名論者としても有名なバスカヴィルのオッカムが言うような「あらゆる認識は個物の感覚的直感に基づくべし」などを考えると、ますます重く圧し掛かるものに潰されそう。
ものを考える時、学ぶ時、どこに感覚が存在しているのかを忘れていると思う。
痛みでも悲しみでも、なんでも構わない。何かに急かされて、孤独にふと気付くことでも構わない。何を求めていて、それは何を喪失したからなのか、何で穴を埋めようとしているのか、そんなことを考える以上に、私は意識的に色々な何かを感じることから遠ざかっているとしか思えない。


飢えだとか、怒りだとか、そういう単純なものに還元することにどうも慣れているようだ。分かりやすさは、画一的な消去法の実行。
ニーチェは「古代の午後の幸福」を、エピクロスと苦悩と孤独のなかに見出したけれど、彼らはきっと私とは違って今をもっと感じて、考えていたのだろう。苦悩を生活の一部として、ごく自然に受け入れていたのだろう。
それが本当に楽しいものかどうかを私は知らないし分からない。けれど、自分にとっての価値あるものを得ようとすることは、空の上の星を見て、今を忘れることとはどうも違う気がする。少なくとも、自分が生きていることを忘れることだけが、幸福ではないとだけは言っている気がする。ごく当たり前のように悩むのなら、それを受け入れること、痛みを受け入れることは、自然なことなんだろう。受難劇に涙する人たちは、そうして日常のなかに大切なものを取り入れているのだろう。どこが愚かで無知なものか。信仰は、自然な日常そのものじゃないか。


忘却はなめらかなナイフのように、傷の痛みも、傷跡さえも見えなくしてしまう。
子供の頃に大きな手術をするために、私は全身に麻酔をかけられたことはある。目覚めると、痛みの記憶もないままに、頭に大きなメスの跡だけが残っていた。そんなことをふと思い出してしまった。


世界と歩調をあわせようとすればするほど、恐ろしいほどに薄れていくものはあるのだと分かった。中庸ほど難しいものはない。

受け入れるものはなんだろう。暗い礼拝所で、手を合わせる人がいた場所はどこなのだろう。
私はどうも言葉に騙されている気がする。それがただの名だということを忘れている気がする。受け入れるものは、言葉ではなくて、私が初めて名付けるようなものだろう。
それは、気付けば人には聞こえない言葉でささやく世界そのものかもしれない。ミレーやクールベが自然から聞いていたもの、ウィリアム・ブレイクが見ていたものは、全てを名付ける視線ではなく、ただ聞こえてくるのを静かに待つこと、聞こえてくるものを受け入れることから始まるものなのかもしれない。
何もかも、こんなにもよく見えるのは、残酷なほどに光が世界を真っ白にしてしまうからなのだな。プラトンが歩いてくるのを、アカデミアの柱の陰で、私も静かに待っていられたらなとか思う。そして言ってみる。「やっぱり私がいるのは洞窟なんですね、先生。」