この世から失われた感覚はない

誤解されそうなので念のために書いておけば、私は懐古主義に耽る気はないのです。センチメンタルにノスタルジックに過去を懐かしむも何も、書いていることはすべて自分の生まれる前のことばかりですから。懐かしむのはそもそも無理ですし、かといって70年代以降の音楽を下らないものなどと言う気もありません。
きっと5、60年代にあった幸福感は今でもあると思うし、様々な音楽が溢れる現在はむしろ大好きです。
では、何が失われた感覚なのでしょう。


それは、きっとある種の必然性なのだと思います。そして、それはおそらく今も変わらないものに違いありません。
しかし、それは、ほとんど意識されません。
だから「失われた」と言っても、正しくは、意識してないものだということなのです。
拡散すればするほど、何が共通するものなのかが分からなくなる。
生まれるのは、ただの相対主義。「私は私、あなたはあなた」「価値観の押し付けは迷惑」
ごもっとも。まったくもってその通りでしょう。
しかし同時に、なんてつまらない。。と反吐を吐きたくなります。
そんなことは当たり前のこと。繰り返して何になるのでしょう。「人が生きていくのに水も空気も必要だ」ってことと少しも変わらないではありませんか。
けれど、相対主義の反対が絶対主義などということもないのです。
これは観念ではありません。人の立場が相対的ではないことです。相対とは、コミュニケーションのことです。
けれど、私の意識が相対になることはできない。それが忘れられている。一人の時に相対であるなどということは、観念以上の意味を持ちません。
相対的に人を想う人がいるでしょうか?

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認識したところで何も変わらないものはあります。そんなことをわざわざ繰り返すのは時間の無駄のように思えます。
「人はやがて死ぬだろう」
分かりきっています。
「世界はおかしくなっている」
これも分かりきっています。

だから、何?そう、つぶやくだけで、後は自分のことで精一杯とか、そんなことにしか繋がらない。もう真っ平。
まるで何よりも大切なことのように、みんなで認知しあう。


大切なのは認識ではないと思います。
認識の先にある、自分の変化や生まれる欲求に正直になることです。
欲望は恐ろしい。自分で意識しなくたって欲しくなりますから。世界中、誘惑の嵐。。


必然性はいつの時代だってあります。私は分化する前に、共通するものを探します。
コミュニケーションは単に技術なのではありません。
共時的なものだけでもなく、通時的なものでもあります。

私が持っているような感覚は、すこし意識すれば歴史のあちこちから見つかるのですから。

孤独は忌むべきものではないと思います。
孤独だから、人は美しいものを生み出すことができる。
一人誰かを想う時に、孤独でない人はいないから、人は求め合うのではないでしょうか。
けれど、こういう当たり前のことは、誰も語ったりしない。
「わたしはわたし」などと言う暇があったら、それを出発点にすればいい。

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ありとあらゆるノイズは美しい。ノイズは額縁の外側に溢れるもの。作品はそんな世界なしには存在できない。
ああ、美しい絵を飾る額縁という額縁を外してみたいものだ。
「わたしはわたし」じゃない。わたしはわたし、だ。
どれだけ傷付いても、長い爪で世界にひっかき傷くらい作ってやるさ。
甘くコーティングされているのは、夢のなかだけで私には充分。
そんな簡単に終わってたまるか。括弧は要らない。本当に要らない。