不可視なリアル

今では、情報はリアルな物質性を伴っては存在しにくいのかもしれない。それは売買といった契約に限定されず、意識のなかで占める感覚にさえ影響を及ぼしているように感じる。書店で本を手に取ってこれを購入する行為が失われることは、情報の受容自体が、肉体的な感覚を伴わずに行われていることに他ならない。おそらく都市化といった数百年前を起源とする現象は、ここに帰結する。都市は整備された区画のなかでカオスを必然的に生み出したが、そのカオスは都市そのものの存在を否定し始めているのだろうか。カオスは都市から離れ、結ばれた回線の内に潜伏する。そこで偶然性は論理の破綻からしか生まれなくなる。これは不可視化されたバタイユの世界だ。
アートが物質性にこだわり、素材に注目した作品を大量に生み出したことも、今では一つの方法に成り下がってしまった。法律でも、民法は物権を有体物にほぼ限っているが、最近ではこの限界が露呈し始めている。こうして従来のリアリティに対応した世界が、変容し始めている。
それは間違いなく社会のなか、世界のなかで生じる。六本木や青山の都市的変容を見れば分かることだろう。
もはや経済は物質的なリアリティから離れる一方だ。けれども、人が肉体からの拘束から離れられない以上は、ABCの倒産のようにそのショックがリアリティを伴って拡がる。そして感情だけがリアルに拡散する。その感情はひたすら受容的だ。文字となって拡散する。同内容の情報を感情や意識の共有であると判断するのはどこでだ?端末にいる私は、相変わらずモニターを見つめているだけだ。これは想像力の役割が増大したってことなのか?
しかし、目に見える風景から消えていくのは一体なんなのだろうか。記憶のなかでたたずんでいる町並みはなんなのだろうか?もう触れることのできないあの人の手や身体の感触のように、外界もまた感触を残したまま記憶のなかに消えていくだけなのか?
だからこそ、セックスにリアリティを求めることが過剰に肯定されるのかもしれない。同じように、凶器を持ち、人を傷つけることもリアルなのかもしれない。人が死ぬこともリアルなのかもしれない。イラクにおける残酷な殺害場面に、僕はリアルを感じる。しかし戦慄するのは、見たものにではなく、自分自身にだ。
おそらくリアルはどんどん逃げ場所を失っているんだろう。そして、人と人とのリアルな関係にしかたどり着けないのだろう。しかし、僕には、人と人とのつながりだけがリアルになる世界は狂気としか思えない。