参加

ネットを見ていると、時々自分が考えていることのほうがおかしいんじゃないかって気になったりします。確かに俺だって自分のことを喋ったり気にしたりすることはあるけれど、そればっかりなのはあり得ないし、日記で私的ことばかり書くことには、かなりの抵抗があったりします。自分が経験したことへのコメントみたいなのが溢れているのは(勿論、読むに耐えるものならまったく問題ないんですが)、客観性を欠いているようなものは読んでて気分が悪い。
そこで、こういう気分はどこから来るんだろうかと考えてみました。

それは書いている側に問題があるのではなくて(そういう場合もあるだろうけど)、どういう表現に対しても自分のいる位置が変わらないという、PCと向かい合ってる身体の問題なのではないかと。
そして、それは「参加」に関する大きな問題なのではないかと思うのです。


Winnyを巡る事件のあとで、あちこちで議論が活性化していて、それがP2Pの概念を巡るものにまで発展しているけれど、私は匿名性に関することにはおおむねその意義を認めるものであるし、2ちゃんねるがウェブ上でどれだけ重要な位置を占めているのかを理解するのにも吝かではないです。
だから、そういった空間で有名(⇔匿名)であり私的なものが、どういった存在になるのかが疑問に思うということで、そもそもものすごくプライヴェートなものとして自我の形成にも大きな役割を果たしてきた日記というものが、公開される形式で存在するということが、すでに私的な空間の意義をさえ変えてしまうのは言うまでもないし、それは誰かに同意を求めるものなのか、それとも自己への鏡として機能するのか。とりあえず、当初言われていたような表現の自由としてのネットの公開は、検索エンジンに登録されない限り、また外部への表現の意志を伴わない限り、実際には人目に触れることが少ないという状況を考えれば、極小的に小さな公開ということになるだろう。だから、まるで自己を吐露するような言論が多いのは仕方がないのだけれど、そういう無数の言論を次から次へとはしごしていると、どうも読んでいるこちら側が、自分がどこにいるのかが分からなくなって眩暈を起こしそうになる。
閲覧、と言ってしまえばそれで終わってしまうのだけど、ある表現に対しては多少なりとも「参加」としての側面があるように思うのです。映画を見るには、映画館に行き、多くの人と一つの画面を共有する。読書は私的なものだけど、作者が書いた作品のなかに参加する。テレビを見るのも、ライブに行くのも、すべてそこには参加という行為を伴う。
しかし、ネットは、実際にそこにある表現は多様であるも関わらず、参加の形式は変わらない。自分はモニターの前で座っているままです。このことが、実は大きな問題なのではないか、と。


といっても、やはりその表現をする側にも問題があるのかもしれません。
見る側は、そこに書いている人の意志や考えといったものを読み取るのですが、それがあまりに自分だけで完結しているものを読むと、「俺は参加しているのか、それとも違うのか」ととても曖昧な状況に置かれてしまう。文章が読ませるものなら問題ないんですけどね。

この問題は、P2Pの問題でもなんでもないんですが、それでもどこかそういうコミュニケーションに関するものを、常にはらんでいるわけで、まあ、一言で言ってしまえば、「内容は興味があるかどうかで違うから関係ないけど、前提として、表現にも意見にもなってないようなものは読みたくない」ということなんですが。
うーん、なんだか特定人の日記の問題な気がしてきた。。

まあ、そんなの気にしなきゃいいんでしょうが。単に俺が不器用なだけかもしれません。



なんだか今日は書きすぎました。