なんだか怖くてたまらない。
昔から逃げ出したくなると、それに勝手に理由を見つけてくる。それが論理的にはまったく問題なかったりする。それを言い訳にして、やんなきゃならないことは適当に要領よくやって誤魔化す。そうやって自分を誤魔化す。

軍事マニアが好きそうな戦術の本。私もああいうのが結構好きだったりする。読んでいるとハンニバルやアレクサンダー、ナポレオンみたいな名将と呼ばれた人の思考の動きが見える。正々堂々と戦う人なんていない。戦術とはそういうものだ。孫子は「兵とは詭道なり」だと言う。騙しあいってことだ。別に、逃げることは悪いことじゃないなんて平気で言う。大事なのは勝つことだ、と。

表面的な逃げってやつと、諦めは全然違う。だから、そういう意味じゃ私は逃げてるわけじゃないのかもしれない。かわしてる、だけなのかもしれない。
なら、なんでそういう自分に対して、誤魔化してるなんて感じるんだろう。それはきっと、堂々と逃げてるわけじゃないからなんだろうな。どっかで、恐いとか嫌だとか感じている。それが逃げの動機だってことをはっきり自覚している。そのせいだ。


自分を犠牲にして何かをやる、というのは、言葉にするよりもずっと簡単なのかもしれない。身体のリズムを決めてしまえば、あとは無意識に続いていく。ミニマルミュージックのひたすら繰り返される音のように、自然に続いていく。ただ、そこでは事件と呼べるようなものは起きず、微妙な差異が重要になってくるってだけのことだ。

恐いのは、何が犠牲になるのかが分からないってこと。ビートが失われるのが恐いのかもしれない。ドラムが抜けて解散してしまうバンドみたいに、たったそれだけですべてが消えてしまうかもしれない、そういう怖さ。


私は友達を信じています。もし私が変わってしまいそうになったら、教えてください。
あの人にとってだけじゃなく、みんなにとっての私がまだ信じてもらえるのに値するのなら、平気なのかもしれない。
変化は避けられないのなら、どんな風に変わるのか、ってそれだけが大事なんだよね。恐いとかそういう言い方をしているだけじゃ、自分の願いだって通じないだろう。文句を言ってるだけ、涙を流しているだけ、みたいな人間にはなりたくない。
「そういう人間に私はなりたい」なんてつまらない。理想なんて、はっきりしたものじゃないよ。
いつも何かを感じて、考えて、そんな風に状況を眺めながらじゃないと、恐いことばかりで何もできなくなってしまう。