全ては差異の戯れに過ぎない・・・?

記号論って知ってます?細かいことは書きませんが、アリストテレスを出発点として、キリスト教のなかにも取り込まれ、言葉を巡る問題としてずっと人間が考えてきたことです。特に、ソシュールという人が20cに登場して以降は、世界はオリジナルなものを生産できず、差異の体系のなかで記号が生産され続けるということにまで行ってしまいました。要するに、ダイエットコークはコカコーラとの違いによって生まれるみたいなものですか。
これは楽しい反面(物事の分析が簡単にできますからね。。。)、かなり虚しい。そこでは固有の価値の存在は認められず、人は「絶対的」に何かを語ることも好きになることもできない。つまり、どこかで何かを踏まえた上でしかものを見れないわけですよ。「この人は美しい」と言っても、そこには無意識と言ってもいいレベルで何かしらのイメージが参照されているわけで、まあ関係性のなかに置かれることでしか人は存在できないのだから、あたりまえっつったらあたりまえなんですけどね。ただ、意味の体系でならそれでも問題はないとしても、日常レベルでこんなことを考えていたら、まず人間はもちません。というか、私みたいな人間にはともかく、普通の生活を送りたい人々には、こんな思想は不要を通り越して害ですらある気がする。。。
つまり、思想の抱える問題っていうのはこういうことじゃないかしら。
思うに、現代思想にとって最悪だったのは、ニーチェ大先生の「神は死んだ」っていう一言にあると、私なんかは信じて疑わない。そんなことを言えるのは、先生の言うような「超人」だけであって、そんな人間はどこにもいません。この思想をニヒリズムだとか、弱者の持つルサンチマンゆえの愚かさが宗教だとか言って、陽気に笑えるのは誰なんでしょう?当時の時代背景を考える上では、優れた状況分析かつ指摘だとは思いつつ、「それ」以降の世界を考えても、その先には「狂気」しかない。欲望といったような自分自身の力(先生は「権力への意志」と表現)というものは、過信される方向にしか行けないし、そこが実際にニーチェの思想の問題点(ナチスに繋がるような)になってしまう。結局は、神と言う名の絶対者がいた場所に、人間が座っているだけです。でも、時代はニーチェのその後を模倣していっているとしか思えない。狂気の果てへと・・・。
問題なのは、ルサンチマンを持つことのない超人であって初めて「それ」以降、つまり「絶対的な観念」が不要になった地平に立てるわけで、実際の人間にとっては、そんな世界は危険かつ不幸なことこの上ないです。ニーチェの言うことを崇拝する人は、そんな強さを誰に求めるんですか?新興宗教やら偶像やらの氾濫を見てくださいな。
アウグスティヌスは、人にとって愛というものを重要なものとして捉えましたが(勿論、神学の上でですが)、これを否定して先に進めるほど、人間が強くなったことなんてあるんでしょうかね。
こういうのは全て相対主義と言えるものなのでしょうが、ひどく虚しいです。戯れを戯れと見ずに、ただ流れていくほうが楽なのは間違いない!
ただ、それは私には許されない。なぜなら、人の意識って時空を平気で超えるものですからね。地球が無くなるまでの物凄く長い時間を旅したって、確実にあることが分かっている宇宙の果てには辿りつけないし、肉眼の視野では見ることもできないグレートウォールの構造も、計算によって分かっていたりする。
そうやって人は、ある意味「神」の視点を持とうとするわけです。理性と想像の力で。
ただ、その代償が分かりやすい形でしか訪れないのが、皮肉なだけなんです。

*もしかしたら、不勉強のために解釈が間違っているかもしれません。
ニーチェに関しては、その思想を批判しているよりも、彼の発言を哲学史的に「正等」として位置付けることが問題だということです。専門家はともかく、一般教養の範囲では必ず(というより唯一)引用されるのが、その部分ですから。