中世の秋

julien2004-03-22


短期間でキリスト教思想をまとまるのは、かなりしんどい。宗教改革までにしたって1500年分くらいはあるわけで。まあ、集中してやるのはいいもんだね。
ただ、いまだに古代と近代を結ぶ程度の意味合いでしか中世には触れられていないけど、恐るべき頭脳を持った人間っていうのはいつの時代にもいるものだな、とは思った。純粋な意味での哲学を問う際に、宗教思想について触れられないのは仕方がないとしても、哲学を語る上で、この時代を無視するのは出来ないと痛感します。哲学なんて言葉の枠に捉われずに、もっとより包括的に学問的に人間を捉えようとすれば、宗教を無視するのは如何なものかと思えてくる。
例えば、神学者や修道僧たちは、信仰といった内面の感情を、理性といかにして調和させるかを常に考えているわけで、理性だけでモノを語る「合理的な愚か者」、いわゆる頭でっかちな人間とはまったく違うわけです。そう考えれば、現在の思想が貧弱な理由は、そういう内面性を無視した結果とも言えるのかしれない。最近では、ウィトゲンシュタインなんて何つまらんこと言ってるんだかの感じがしているし、いまでは一大思想だったかのごとき体を成している構造主義にしたって、近代なんていう馬鹿げた時代に比べれば立派なものかもしれんが、状況を構造で掴む方法は仏教がとっくの昔にやっているわけで。勿論、皆さん大変に賢い人たちだったわけですが、どうにも損な頭の使い方をしたようには思う。問題は、時代の制約がいかに恐いか、ってことですけど。
今は彼らの時代と比べたって、遥かに滅茶苦茶な時代で、もう何が起きてもおかしくない。それも、自分とはまったく関係なさそうな場所で起きることが、一気に地球レベルで影響するという恐ろしさ。知らなきゃならん事も、昔とは比べ物にならない。例えば、夏目漱石やら森鴎外の時代の旧帝大受験に必要だった知的レベルって、今の予備校生レベルだって言うじゃないですか。今は、最低限必要なレベルがそんなものじゃなくなってるわけで、でも、じゃあ最近の芥川賞取った作家が夏目漱石と肩を並べるかって言えば、そんなわけはない。一体、なんなんだ、とは思いますね。
ただ、狭い知識じゃ、この霧の晴れない戦場で、生きることさえ大変ってことですね。とりあえず、頭を使わないことにはどうにもならないことだけは確かなのかな。

現代思想に関して言えば、感情や、特に信仰といった内面に関しては、エポケー(判断停止)されてるのが現状だし、実存主義がその代わりを果たしているかといえばそうでもない。ただ、スピノザキルケゴールヴェイユも、キリスト教をかなり踏まえなければ、彼らの真の理解はできない気がする。ニーチェの言葉に踊らされすぎですよ、思想家の皆さん。
また、啓蒙という言葉はあっても、クレルヴォーのベルナルドゥスが言うような「自己と他人のための学問」なんて発想はまったく見られない。私はいままで何を学んできたんだろう。なんだか、悲しくなってくる。
とりあえず、中世が間奏曲なんてとんでもないです。疑問を持つ人は、歴史書ですがホイジンガの『中世の秋』を読んでみれば、そこにはどれだけ豊かな世界が広がっているのか分かるはずなのです。