Book@LIBRO池袋


こういう本に手が伸びるのも、思想系の人間にとって「おたく」の存在が気になってしょうがないっていうのが理由なんでしょうね。東浩紀の同じく現代新書から出てる『動物化するポストモダン』を読んでしまうのも、別におたくの人みたいにアニメに固執してるわけでもないけど、当たり前のようにそれを消費してしまってる自分の問題でもあるし、なにより読んでないと置いていかれる錯覚に陥るという理論の抱える永久機関的原理も働いてる気がする・・・。きりがないってことですけど。
まだほとんど読んでないんでなんですけど、これは日本の裏現代史というか、バブル期の日本史とでも位置づけられると思う。大塚としては「若造」の東浩紀に対して「先行者」としてのプライドを見せ付けたって部分もあると思いますよ。『多重人格探偵サイコ』の原作者ってだけじゃなく、理論家でもある大塚の面目躍如ですね。パラパラ眺めても、これだけのサブカルチャー=「おたく」文化の歴史本もないはずで、しばらくは様々な分野で引用されること必須。あえて、エヴァンゲリオンで著述が止まってるのは、まだ様子を見るということなのかな。まあ、80年代論って書いてあるので、問題はないんですが。
そういえば、友達に買ったってメールをしたら、彼も今日買ったらしくて笑った。シンクロニシティですか?ところで、彼の話だと、週間ブックランキング1位なんだとか・・・。



追記:
大塚の言う「「差異化のゲーム」という記号論的なふるまい」があまりに日常的になってしまってて恐ろしい。「新人類」って私のことなんじゃないだろうかという気になってくる。
世代は違うけれど、大塚が言うように80年代に「おたく」と「新人類」という二つの種が生まれたとしたのなら、バブル期以降の私たちは自分で名乗る肩書きさえない「新人類」なんじゃないだろうか。差異化の戯れから、あの当時の新人類より自由になっているとは思えない。


泡のなかから生まれたヴィーナスという言い方は、詩的には悪くない表現だと思うけれど、実は何も生み出せないでいるだけなのかもしれない。差異化から逃れて、美そのものであることなどありえないから。「ありのまま」という言葉ほど危険なものはない。
ただ、カルチュラル・スタディーズの人達がやるように、表現のなかに権力の介入を見ていくことが、どれだけ意味があるかどうかは微妙だ。すべてが戯れならば、ランボーのように超越的な視点から言葉で打ち抜くほうが遥かに有効なのではないだろうか。


戯れから分析だけで自由になれるわけがない。インテリの困ったところは、分析的なテクストが、インテリではない人達、(あえてカルスタの用語を借りれば)「カノン」(古典)を読んだことのない人達にとって、まったくの無用な(というより、調和のためだけにレストランの片隅に置かれているような造花のプラント)ものになっていることを、彼らが「無学」だからだということで片付けて、そういう人達を眼中に置かないような、そういう感性にあるんじゃないのか?そのわりには、平気で「大衆文化」について論じていたりする。「お前らが喜んでるものは、こういうものなんだぞ。分かったか」と言わんばかりだ。でも、よく考えてみれば笑っちゃうよね、これは。浅田彰の名前を知らない大学生が、今どれくらいいるか知ってるの?でも、知らないことが悪いことだと思わない。少なくとも、「恥」には絶対にならない。それが現実でしょう。


私が持つ分析的なテクストに対しての決定的な不信感は、感じるということをあまりに無視しているところにあるのだけど、そもそも感じるべきものを言葉で解釈していく(名目は「権力の介入から表現の力を取り戻す」というものであっても)という行為が、自己満足なものに終わってるのに、それに対する自己言及はまったくもって欠けている。これはとっても惨めだ。ソクラテスが言う学問の原点に立ち返ったら?と言いたい。なんのために考えているのかを問えないインテリ共にはほんとうに困ったもんだ。


分析から創造が生まれるわけがない。批評は立派な創造ではあるけれど、背伸びをするべきじゃないだろう。小林秀雄に対して、恥ずかしくないですか?

*ちなみに、この追記は大塚さんに対するものではないです。思索に対しての自意識なしに、こんな本を書けるわけがないので当然ですけど。