空蝉

julien2004-03-01

突然ある言葉が記憶の闇から蘇り、人を苦しめることがある。こんな類いのことは、勿論誰にでもあることだ。だが、私の場合は、ある小説の登場人物と重なってしまい、どうにも深い迷宮のなかに落とされるような気分になる。
過去のことをいつまでも引きずる必要は少しもないし、実際に私は気持ちの切り替えが早いほうで、嫌なことがあっても、それは考え方次第でいくらでも見方を変えることができると思って実行しているから、たいして辛いことはないのだ。だが、その小説上の人物が果てのない遍歴を重ね、大切なものを次々と失うことを思うと、自分自身がやりきれない気持ちになってしまうのである。
その人物とは、源氏物語の主人公、光源氏である。自分と源氏を重ねるなど、余程の阿呆か勘違いしたものでもないかぎりしないだろうが、これには事情がある。
この事情について書くと、徒に自分のつまらない過去について触れることにしかならないので止めるが、結果的に、つまらない妄想のために相手を傷付け、それ以上に自分が喪失感を抱えることになったということだ。

私は『源氏物語』が好きで、そこに出てくる女性たちを現実に想うような時期があった。今にして思えば、時代錯誤の妄想系もいいところだ。
ただ、男子校のしかも進学校にいた私の周囲というのは、源氏を受験のためだけに読んでいるような野暮で無教養な人間ばかりで、そうしたガリ勉の醜男ばかりが溢れるなかにいると、どうしても反時代的な方向にばかり関心が行ってしまう。


ヤることしか考えない周囲の阿呆を見てると、それを否定はしないけれど、もっと精神的なものも恋愛に求める源氏が格好よく見えて仕方なかった。
もちろん、実際に紫の上も六条御息所もいるはずかないし、そんなものを求められた女の子たちは迷惑だったに違いないけれど、別に口に出していたわけでもないから、問題はなかった。

問題が起きたのはずっと後、空蝉を或る人に投影してしまったことで、それが最悪に問題だった。
紫も六条も現実にはいるはずもない人で、ただの夢想で終わるものだが、空蝉は違う。現実にいくらでもいる。
『源氏』を知っている人にはなんのことを話しているかすぐにピーンとくると思うのだが、要するにそういうことだ。
最後も同じように、拒否されて終わった。私は非難されて、結局は「自分のなかで周るだけ」だった。


空蝉という言葉の意味を知っているだろうか?「セミの抜け殻」ってことだ。セミは変わり続ける。だが、最後はどこかへ行ってしまう。抜け殻だけを残して。

「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」

記憶が喚起されるのは、私のなかにその抜け殻が残されているからなのだが、いま或の人が何をしているのか、勿論私は知らない。
ただ、夢想を越えて、私に女性というものを考えさせてくれるものとしての、『源氏物語』がここにあるだけだ。