白銀に降るもの

私が毎日見ている或る日記は、目の前が見えないくらいの吹雪のなかを、一人で突き抜けていくみたいで、読んでいて怖く切ない。
イメージは真っ白。でも、あちこちに体温を感じるほどの赤が点滅してる。それは単純な愛なんかじゃなくて、もっと赤い、刺された人間の体から流れ出るような血の色。そして、それに混じって愛液がキラキラしていて、寒さのせいだけじゃないのに、身体がガクガク震えてしまう。
言葉が流血し、愛液を撒き散らしながらも、あてどなく彷徨う。けれど、けれどとても美しい。私たちの知っている美しさとは無縁なればこそ、まるでこの世界のどこにもない場所のように、神聖ささえ帯びてくる。
けれど、もしかしたらそれは錯覚に過ぎないのであって、それは私自身の血かもしれない。私がそこで傷だらけになってるのかもしれない。そんな見なければいいものを、けれどあえて見ているのは、自傷行為に魂を奪われる少女たちの何かを、私も共有してるからなのか?痛みは、人が思うほど単純なものじゃない気がしてきた。



何を感じているのだろう。何も感じていないように頭で思えるくらいに、私は完全に分裂して、扱いようがないものをも、物として見てしまっているのかもしれない。言葉にすることに慣れすぎてしまって。
実感を探しているうちに、無防備な身体は幻覚に慣らされてしまっているのではないのか?



その人は無意識に言葉を打つのが気持ちいいという。それも言葉に過ぎないけれど、言葉が心を経由して、言葉になってこうして伝播していく。
それは見慣れた風景かもしれない。でも、そこにどれだけの鼓動がリズムを刻んだのか考えてみてもいいと思う。自分のハートに手をあてて、それだけでも、いままで知らなかったものが、小さく鼓動を打っているのが聞こえてくる。



生きている実感などと気安く言うな。そんなものは、言葉の配列上では何の意味もないんだ。私が感じるのは、そんな言葉じゃない。
耳を澄ませば聞こえてくるのは、朝の訪れじゃなく、静かなビートが、無数に合わさって始まる何かだ。
私はそんな現実に手を触れて歩いたことはあるのだろうか。


怖いのは見ることじゃなくて、そこで何も感じないこと。
痛みさえ、もう遠くの国でしか起こらないように感じるのなら、私はいままで死んでいたのかもしれない。この瞬間の前、いままでの私は。