受動的なだけで仕事になるものもある。事件の処理を依頼されて、道具を使ってそれを解決する。
もし、それを理解する知識が無ければ、お断りする。
まあ、これが法曹の実態です。
先日発表されたハンセン氏病に関する調査報告で批判されたことも、これと通じるものがあったわけで。


単純にそれでいいのかしらねと思う。
結局、問題点なんてものは、世界にいくらでも溢れている。事件、という言葉が馴染まないとしても、それらも大きく言えば、全て事件であるわけで。
要件を満たさなければ、訴訟として審理さえされないのは訴訟法の常識ではあれど、解決手段が他にないわけでもない。というか、実際に訴訟によって処理されるのはごく僅か。政治も、何気ない日常での遣り取りも、もっと可能性のあるものなのだと


例えば、道具を使いこなせるということは、もっと積極的に世間と関われるということではないだろうか。
しかし、現実に起きていることを、どこか他人事として(あるいは、完全に他人事として)捉えるのは、それとの関わりをどこかで断ち切ることだと思う。

それは私と世界、との構図で全てを区切ることなのだなと。無関心は当然取りうる態度なわけだ。まあ、当たり前だが。


しかし、たとえば、ここでユダヤ人のインテリジェンスが思想界にとどまらず、様々な領域で驚異的な影響を与えていることの理由は何かを考えてみる。
彼らにとっての世界は、人間と世界の二元論ではなく、あくまで神を加えた3つの属性で成立している。ローゼンツヴァイクやブーバー、レヴィナスといった人々が示した概念が圧倒的なのはそういうものであるし、そこには無関心は許されない。絶えざる世界や神との関わりがある。
私が、彼らの言う神をそのままに受け入れることも理解することもできないけれど、彼らにとっての世界が、より違ったものであるだろうことは容易に想像できる。彼らには、クリスチャンと違って、人と神との属性を持つ存在(つまりはイエス・キリスト)さえ存在しないということは、ふと考えてみても刺激的でかつ想像を超えるものがある。

いや、要は、世界と自己との関わりだけに執着することの限界を私は感じるわけで、それが相対主義の蔓延や個人主義の弊害に苦しむ世界の原因があるのではと思っただけです。

公共性という言葉に、思想界で議論されているものに留まらないものを感じるのは、私だけではないはず。それを、つまらない国家主義民族主義で実現しようなどというのは、実に退屈。


ヘレニズムというのは、アレキサンドロスによって西方のギリシア文化と、東方オリエント文化が融合され、その民族を超えた世界のなかではぐくまれた文化のことですが、そこで起きたことは、何もグローバリズムなどといえるようなものではないです。
もっとも、グローバリズムだって、実につまらないものに留まっているのが現状で、実際のところは似たようなことが起きているだけなのかもしれない。
世界市民主義などと訳されるコスモポリタニズムも、そこで現に求められ流行した思想は、ストア派にしろエピクロス派にしろ、個人の心の平静(アタラクシア)を求めた個人主義的要素が強いものでした。

要は、一人じゃ見れない夢はあるよね、ということです。もっとたくさんのハートが求めないと、見れないものはあると感じてしまうのです。
ポストモダンとか、大きな物語は終わったとか、そういう下らないことを「クール」に語っていた人々はどこへ行ったのでしょうか。
それも、別にそういった観点自体の有効性や意味を否定したいわけじゃない。けれど、資本主義の変容や情報化といった新たな潮流による社会の変化を語るだけで、未来への視点を欠いた議論には退屈なのです。一部の、象牙エリート以外には理解不能な言葉がはびこっているだけで、実務の視点がどこにもない。要は、あえて過激に言えば、革命の萌芽がどこにもない。何より、思想家が常に持ってきたような世界に対する孤独な意志があまりに感じられない。何処の誰が、何処で何を語ろうとしているのかまるで分からない。


まあ、思うこと、感じることはいつまでも果てしなく。所詮は稚拙な人間の脳の産物。私のぼやきもまったく同じ。