From Safety to Where

julien2004-06-24

Joy Divisionの曲名から
この文章は物凄く暗いです。読み飛ばしてください。


安全な場所なんて、たぶんどこにもないんだろう。
テロがどこで起きるか分からないから、とか、日本の治安がどんどん悪くなってるから、とかそんな意味じゃない。
もっと単純に、人はいつ死ぬか分からないって、ただそれだけのこと。
そこから目を背けることが、死をリアルにする。けれど、目を背ければ奴はその分だけ近づいてくる。
確かなことは、僕は日々死に向けて近づいている。人は、それを死が歩み寄るように考える。

From Safety to Where
そこから移ること。けれど、それは死からの逃避ではなく接近。僕が死に近づいてやるのだ。それは幻覚の安全から離れること。ただ、それは行き急ぐことなんかじゃない。


僕は時々どんな風に死ぬんだろうって考える。もし明日そんなことが起きても、僕は誰も恨めない。人がいつか死ぬものならば、生きてるってことのほうがよっぽど不思議なことだと思う。となると、死こそが平穏な状態なのかもしれない。
だから、昔の宗教家が死ぬことが永遠になることだ、って考えたわけはよく分かる。
でも、そんな議論とは無関係に僕は生きている。だから、その死というものに考えを巡らすことができる。永遠はすべての停止であり、静寂だから。
昔、生活を死に近づけようとしていた頃もあった。だから、退廃がどれくらい美しくて甘美なものかは分かってたりする。
でも、それは死の擬似的な体験に過ぎない。死のもつ魅惑的な要素だけを、抽出したまがいものだ。
そして、僕は今も死について考える。
ハートが満たされた瞬間なら、生を永遠へと近づけられると僕は感じる。その時、もはや生と死との境界は消え去り、死は死であることの意味を失うのだろう。それは停止ではなくて、単に生の継続となる。心中とはそんな感覚なのではないだろうか。
観念的なものでしかない死が、感覚されるものへと変わること。そして、それは生のなかでしか起きえない。

僕の中にはタナトスがずっと棲みついている。
その囁きは、死を感覚的なものにする。それは恐怖じゃない。それは魅惑でもない。それは、クロースすること。
そして死は、飲み込まれるものじゃなく、飲み込んでやるものだ。僕の中にはもういない大切な人がいつも眠っている。だから、愛する人となら本気で死ねると思ってる。守るものが何も無いのなら。