感情的な、あまりに感情的な

今日の講義は少し(かなり)屈辱でした。
「おまえの言うことは具体性が無いんだよ。宗教学や社会学だったらそれでいいんだろうけど。」
うん、確かにその通り。経典も読まないで、語れるわけがない。ただ納得するだけです。でも、その場所に限りますが。



読めば語れるんですよね、間違いなく。でも、なぜか関心が沸きません。他のことへと視線が絶えず動いてしまう。
私はね、考えたりすることは呼吸することと同じだと思っているんです。自然なものだから、自分が今いる場所のことを忘れそうになることは、あまりしたくないんです。

先生はアメリカが大嫌いなようでしたが、確かにあの国は歴史が浅いし、精神性の低い、感性の死滅した連中が多いし、一言で言えば「下らない」のかもしれません。
でもね、ポーやフィッツジェラルドガーシュインボブ・ディランパティ・スミスジャクソン・ポロックといった人たちは、みんなあの世界から生まれてきたんですよ。

その理由だけでも、私は先生の意見には同感できません。
先生のことは尊敬していますが、私は歴史だろうが哲学だろうが、現代のことに関わらなければ、博物館の陳列品と変わりありませんから。
私は博物館や美術館で古いものに触れるのも好きです。でも、見てる私が麻痺していたり、トリップしていたら。私は何を見ているのか、語れるのでしょうか?



考えることが、世界の形を少しも変えられないのなら、何も考えないほうが気楽だしずっといいのかもしれません。
考えるということは、勉強のために勉強するような人たちのものじゃない。何かを信じたり、誰かを想ったり、夢を見るために必要なものなのではないでしょうか。

私はそう思うし、それが綺麗なものや世界と繋がっていられるのなら、それも綺麗なものなんです。



一体、いつから考えることが、黴臭い、醜いものになったのでしょう。時代遅れな感じの、しなくても少しも恥ずかしくないものに。


服装やアクセ、髪型、そういうものにこだわることは、少しも悪いことじゃないし、私だって好きだ。むしろ、そういうことに関心が薄い人は、私は全然好きになれない。
でも、それだけで、寂しくならなかったら、それは嘘のように思ってしまう。


今日は、なんでこんなに感情的なんだ・・・?