結局は言葉にできないという戒め

julien2008-02-28

0008 David Bowie "Life On Mars?" (1971)

デヴィッド・ボウイといえば『ジギー・スターダスト』が真っ先に紹介され、世紀の名盤だと書かれる。あの作品が素晴らしいことを否定するどころか、僕も大好きである。あれを聞かなかったら、今の僕の一部分は違っていただろうし、いまだに一番好きなアーティストがボウイなのも、あの作品を聞いたからである、が、彼に取り憑かれたのは何もあの作品のせいだけでなく、彼のアルバムのどれを聞いても(80年代以降のものは含まれないが)、その楽曲の良さ、歌詞、あのバリトンの声、作品のコンセプトなど、駄作などほぼ無く、どれをとっても憧れるだけだった。見た目の格好良さ(というより美しさ)にも夢中になった。固く言えば、音楽はここまで表現媒体たるのか、である。この衝撃は大きく、音楽は好きだが、アートにも文学にも舞台にも興味が無く知識もないような連中にはわかるわけがないだろうと、当時は意地悪く思った。ボウイは完璧だった。
初期(もっとも最初期の彼はモッズだったのでそれを抜けば)のフォーキーなものも良いが、『世界を売った男』以降の、徐々にグラムロックになっていく時期の作品が、個人的にはベスト。特に、美しいピアノが印象的なこの曲を含む『ハンキー・ドリー』はいい。
邦題『火星の生活』は勿論誤訳であり、火星に生活は存在するのか?なんていう歌詞じゃ意味がおかしい。火星に生物は存在するか?である。そう思うのは、映画に集中しろと怒られる少女。その内容は後の『アラジン・セイン』に含まれるようなシュールな歌詞。歌詞を読まなければ、ただの美しい曲で終わるところが、歌詞を読み出すとどうにもよくわからなくなる。
PV(当然にYouTubeで見れる)では、まさにグラマラスなボウイが青のシャドウを入れた目で歌う。
この曲からの連想(または自己アンサー)で、次のジギーへと繋がったのは明白である。ボウイはそこは意識したに違いない。となると、あのジギーは、少女が待っていた存在なのか、しかし僕にはそうは思えない。この曲を無理矢理に次の作品へと結びつけて解釈するのは無用である。わからない、ここで終了。

 鳥かごは必要なもの

julien2008-02-27

0007 It's A Beautiful Day "White Bird" (1969)

この曲のために、今でもガイド本などにはこのアルバムが紹介されています。そうでなかったら、僕などは存在すら知らなかったでしょう。69年とは言え、時代はハードロック全盛時へと向かう渦中、そういう時代だったからこそ、この作品は普通に愛されていたらしい。当時、俗にいうロックファンも、ハードロックだけを聴いていたわけではないんでしょうが、この曲の清廉とした佇まいは聴く人に何かを残す。だから、今でもガイド本に載っている。
おそらくソフトロックかフォークロックとして分類され、どこかバーバンク的な雰囲気もある。スローなテンポで進む美しいメロディ、ヴァイオリンの響き、男女の混声ヴォーカル、僕は60年代前半のポップ・デュオを連想する(現にあるヒット曲に似ている)。
しかし、歌詞は少しも明るくない。金色の鳥かごのなかの白い鳥、飛べるに違いないけれど、飛べなければ死ぬだけ、年老いていく白い鳥。まるで童謡の「かなりや」みたいだ。
間奏のヴァイオリンは延々と哀調を奏で、それがまた静かに美しいハーモニーに戻る。
この曲を、朝、コーヒーを飲みながら聞きたいなどと当時の評論家は言っていたそうですが、それだけ時代は幸福で、この鳥が象徴しているものなんかに誰も気付かなかったのか。
僕は、この鳥がいまどうしているかが気になるのです。結局、鳥かごから出れずに死んでしまったのか、しかし、この曲を聞きながら、そんなことを考える必要もない。それに、この鳥の名前を(それが、何かの比喩であり、たとえば、この鳥の名前が幸せ、自由といったようなものだとしても)、知る必要もない。この曲は今もこうして聴かれるだけで、考え込んで無理矢理に解釈しそうになる僕や誰かを、どこかで置いていく。気付けば鳥かごはもう目には見えなくなり、鳥は、飛んでいってしまう。けれど、また聴くと、鳥は再び鳥かごにいる。それが何かを考えなくてもいい、鳥かごを見るのは、結局、私。
ジャケットからだけでなく、この曲を聴くと青い空が見える。鳥かごは、だから必要。

 完全なこと

julien2008-02-26

0006 Fairground Attraction "Perfect" (1988)

数年で解散したバンドの、世にも幸せなたった一枚のアルバム、その一曲目を飾るのがこの大ヒット曲。ワンヒットメイカーと呼ぶには惜しすぎる天才バンドの、このアルバム全体を包む幸福感はなんだろうかと思う。
歌詞はなんてことない恋愛への希望を歌うもの。
僕は半分になったハートなんて欲しくない、っていう出だしの言葉はパーフェクトだが、要するに失恋してしまい、若者はミスばっかりする、でも、恋(正しくはLove Affair)はパーフェクトじゃなきゃ、という強がりに似た感情、そういう歌。
1988年の英国なんて、英国病という不景気が果てしなく続く暗いトンネルの中だったんではないだろうか、ザ・スミスが極めて内省的で美しい歌を作るのをやめた翌年に、この軽やかなでいて、それでいて意思の強いリズムにサウンド、エディの美しいヴォーカルがどんなふうに巷に広がったか、想像するのは簡単。
けれど、それでいいんだろうか。なにもかも一過性に消費されてしまう空気のなかで、この曲はどこか抵抗しているようにも感じる。サビのラストの辺りでのマイナーコードは、単なる恋への強がりだけでなく、なんともいえない諦観を感じてしまうのだ。パーフェクトなのは恋愛でなく、この瞬間の感情に過ぎないのだ、と言わんばかりに。
この曲は、だから、どこか孤独です。パーフェクトであることは、調和や、周りに溶け込むことから逃れてしまう。だからこそ、この曲は永遠を与えられてるように「パーフェクト」なのだ。

 誘うもの

julien2008-02-25

0005 Petula Clark "Downtown" (1964)

この曲は誘う曲、ダウンタウンという言葉が魔法のように響いた時代に、聞く人の心を誘う曲。そこに行けばなんでもある、たった独りで孤独な人、そこには誰かがいて、喜びが溢れ、そこでは何も失うものもない。
ダウンタウンは確かにいつも華やか、ニューヨークでもロンドンでも、パリでもベルリンでも。東京ではどこが下町なのか、広すぎるこの街にはそういう場所があちこちにある、渋谷、新宿、池袋、昔の六本木。この曲にいちばん合うのは渋谷だろうか、確かにそこではみんな悩み事を忘れて笑う、私もある時期まであそこにいけば何か楽だった、ある時期からかえって孤独になった。それ以来、もう僕にはダウンタウンは無くなってしまったのかもしれない。
でも、この曲は誘う、1964年のロンドンはスウィングしていたのだ。属に言う「スウィンギング・ロンドン」、ビートルズが、ローリング・ストーンズが、キンクスが、ダスティ・スプリングフィールドが、あの喧噪のなかにいた。そこにあったダウンタウン。モッズどもはクダを巻いて街角、ダンスホールに溢れ、町中をヴェズパに跨がって疾駆していたダウンタウン。いまどこにある?どこにもないのは当然だが、今もこの感情は、この歌の存在する場所はある。
この時代の音楽が歌ったのは何も反抗心だけじゃない、ダウンタウンは汚いところから、こんなに夢と希望に溢れる、そんなふうに見えて人々を夢中にさせた、そんな場所に変貌した。
この曲は、だからひとつの風景画であって、そこからいまも彼女が手を伸ばして誰かを誘っている。

旅旅歩こと

julien2008-02-24

0004 Godiego "銀河鉄道999" (1979)

ゴダイゴはメンバーの内の半分が外国人で、それはリーダーのミッキー吉野さんが元ゴールデン・カップスにいたくらいで英語に強いというのがあるのでしょうが、だからサウンドはとてもこなれてるし、実際にゴダイゴの曲は歌詞に英語が多かったりとずいぶん国際色強そうで、実際はガンダーラにしろビューティフル・ネームにしろ、タケカワさんの歌い方もあって、思い切り「日本のバンド」という感じである。僕がこの人達の映像を見ると、ちっともカッコつけてないことに驚く。いや、これでも本当はずいぶんカッコつけてたのかもしれないけれど、不自然な感じはまるでない。そういう意味でも、いかにも日本のバンドなのであって、だから、こういうバンドは、いまはたくさんいそうでいて、その実、まるでいない。
グループ名も不思議で、Go Die Goということで、倒れても立ち上がる旅人なのであった。つい最近、再結成されたそうで、その名の通り。僕にとってのリアルタイムなバンドたちも、旅をするのでしょうか。
この曲は同名アニメの映画版主題歌。このイントロを聞くといつも胸が躍る。最高に踊る。本当に旅に出かける前のようになる。ロックンロールの性急に突き進む感じではなく、もっとゆったりした感覚、早く来いと乞い願う感じではなく、やって来るのを待つ感じ。生きることは旅をすること、こんなBGMはなかなか無いです。

終わりなんてないこと

julien2008-02-22

0003 Todd Rundgren "Hello, It's Me" (1973・原曲1968 by Nazz)

Lost In Translation』の前の作品『Virgin Suiside』のなかで、この曲が流れるシーンはあまりにベタ、ベタすぎてかえって感動した。ほとんど囚われの身だった少女たちに男の子が電話越しにこの曲のレコードをかける。
「やぁ、僕だよ」
トッド・ラングレンは異様な衣装とメイクでこんなうたを歌う。彼は長い顔で美男子ではない。マルチにどんな楽器でも演奏し、これだけの声と歌唱を持つ。昔、ビートルズに憧れた少年はこんな歌を書いていた。「君はさよならって言うけど、僕はやあっていうんだ」と言われて、彼もやあって言うのだ。僕だよ、僕だ。
この曲のオリジナルは、彼がナッズというバンドをやっていたころに書かれたもので、そちらはまるでビーチ・ボーイズのような、バーバンク・サウンドのような、メロウでスローなソフトロック。
そちらはそんなに売れなかった。彼は五年後に、また同じ電話をかけたのか、「僕だよ」
この曲は、もちろん願うものの歌。もう一度を願う彼の歌。
歌詞を見ればわかるように、この曲の相手とは、もう終わりそうな恋の終末。「僕のことを考えてよ」
けれど、それは誰かの視線、客観的な僕らの視線であって、彼、つまり「僕だよ」と言うその「僕」にはそんなこと見えはしない。
終わりそうな恋、終わってしまった恋も、彼には終わってなどいない、じゃなければ、この曲はもっと哀しい悲痛なものになるはずなのに、でも、こんなに優しく美しい。誰かを想う気持ちは、いつもこんなもの、終わっていないことはこんなに美しい。終末に終わろうとも美しいもの。

こんな曲は一生に一度しか書けないし、歌えない。でも、彼はそれを歌い直した。
何も終わっていないから。届けなかった言葉は最期まで伝えなきゃいけない。
彼女は答えたんだろうか。僕にはわからない、でも、続きを夢見ることは、この曲を聞く人の自由だから。

風にのせるもの

julien2008-02-21

0002 はっぴいえんど ”風をあつめて” (1971)

はっぴいえんどは難しいと思う。しっかり聞いている時はしっかりと聞こえ、なんとなく聞いているとなんとなく聞こえ、適当に聞いていると適当に、ちゃんと聞いているとちゃんと。
最近も発泡酒(?)のCMでこの曲を聞いたし、数年前はソフィア・コッポラの『Lost In Translation』のEDテロップで流れていた。どこかほっとするんだろうか。
しかし、この曲のシュールな歌詞は探しているのだ、幻の町「風街」を。蒼空をかけるため。安心なんかしてない。だから、ソフィアはあのEDにこれを持ってきたのだ、失われたもの、記憶をかすめ、見える幻、追いかけては消えてしまう。
ちまたで言われる日本語ロックというよりはフォークの亜種のようであり、しかし、この人達を日本のロックの源流に置く人たちが大勢いるのだと。
まあ、正しくは「日本語ロックの」であって、「日本のロックの」ではない。しかし、これをロックだと受け止めた当時の音楽感を僕は知りたい。松本隆さんは自分らの状況について意識的だったはずで、英語とは異なるリズムの日本語に合わせたロックを模索する、それは失われたものを取り戻す為に、新しいものを作り出そうとする、とても不思議な試み。
英語はかっこいいし響きもいい、あの頃の人達は、ラジオやレコードのなかの音に胸を躍らせたんだろう、でも、だれも英語なんか話してなかった。瓦屋根の下で日本語を話しながら探していた、見つけるための道具、楽器、声、そして言葉。